東京ディズニーシーは、1988年4月15日のディズニーランド開演5周年を迎えた記者会見で、高橋政知さんにより第2パーク構想が発表されたことが始まりです。
その後、高橋政知さんは大きな困難に何度も直面しようと諦めることなく実現に向けて尽力します。
高橋政知さんなくしてディズニーシーの実現はありませんでした。
今回は、ディズニーシーの実現に大きな役割を果たした高橋政知さんのご家族を徹底調査しましたのでご紹介します。
高橋政知の家族構成は?
家族構成
- 父:太田昌弘
- 母:タミエ
- 長男:太田正明
- 次男:高橋政知
高橋政知さんは、太田昌弘さんが福島県知事在職の際にタミエさんとの間に次男として生まれています。
父である太田昌弘さんはかなりの酒豪でした。
高橋政知さんは学生時代に父からお酒の手解きを受けていたほどです。
その甲斐あってか、東京ディズニーシー実現のための交渉の際、お相手を料亭に招待してはお酒を酌み交わし交渉をまとめていったそうです。
奥さんとはお見合い結婚をして、高橋政知さんは婿養子になっています。
ただの憶測ですが、きっと素敵なご夫婦だったのではないでしょうか。
高橋政知の妻はどんな人?
高橋弘子さんは、当時富士製紙の専務に就いていた高橋貞三郎の一人娘です。
高橋政知の父・太田昌弘は、息子を政治家の娘と結婚させたがっていたそうで、政知さんにはたくさんのお見合いが持ち込まれていました。
親のいいなりになりたくなかった高橋政知さんは、その多くのお見合い中から1番の美女を選びました。
それが高橋弘子さんです。
またかなりの資産家であった高橋禎三郎さんの一人娘の弘子さんにもたくさんのお見合い話が持ち込まれます。
しかし高橋弘子さんの目に止まったのも高橋政知さんでした。
そうして2人は夫婦となり、結婚後は上海のフランス租界で暮らしていたそうです。
高橋政知の子孫は?
高橋政知さんは、1988年に妻・高橋弘子さんが体調を崩されてからオリエンタルランドの社長職から退き会長となっています。
きっと愛妻家だったのではないかと予想されます。
惜しくも1992年の1月、高橋弘子さんは心臓病で亡くなってしまいます。
しかし高橋政知さんは奥さんの死を乗り越え、その後も「東京ディズニーシー」実現に全精力を注がれました。
高橋政知さんはその2年後、実の兄である正明さんの親友であったご夫妻の媒酌で81歳にして再婚しています。
高橋政知 妻/子孫 まとめ
ここまで読んでいただきありがとうございました。
高橋政知 妻/子孫まとめ
- 富士製紙の専務の一人娘である高橋弘子と結婚。
- 高橋弘子の逝去から2年後、81歳にして再婚。
- 現在も子供がいたという情報はない。
高橋政知さんがオリエンタルランドへ入社したのは48歳の時です。
いつの間にかベンチャー企業の社長となり、結果として海だった場所に東京ディズニーシーの礎を築きました。
東京ディズニーシーの実現に、高橋政知さんはなくてはならない存在でした。
夢に出会い、何かを成し遂げるのに遅いということはないのでしょう。
また妻・高橋弘子さんが体調を崩されてから社長職を降りていることから、仕事一筋なだけではなく愛妻家だったことも推測できますね。
東京ディズニーシーの実現の裏にこのようなストーリーがあったとは驚きです。
また違った角度で東京ディズニーシーを楽しめそうです♪
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